何かの正しさについて語るとき、
その正しさの基準となるものがあります。
その基準を多くの人が共有しているとき、
それは「常識」という言葉に置き換わります。
では、バレエにおける正しさの基準はどこにあるのでしょうか?
私がバレエを指導するとき、
動きの正しさの基準は「バレエ教授法に則っているか」です。
バレエ教授法の存在を知らないときは、
「解剖学的なアプローチ」を基準にしていました。
解剖学的なアプローチは、ダンサー一人ひとりの踊りやすさを追求したアプローチです。
ですので、解剖学的なアプローチで動かすと、
「私はこの方向に脚が出るけど、あなたは違うのね。」
と、十人十色な方向に脚が出ることになります。
ここで疑問が湧いてきます。
群舞でもこれでいいのでしょうか?
バレエ教授法では、個々のダンサーの特徴に合わせて踊りません。
明確に方向と動かし方が決められていて、それに対して身体を鍛えていくのです。
バレエ教授法と解剖学的アプローチでは、スタンスが違います。
方向と動き重視か、個々の身体重視か。
これは基準の違いからくるものです。
舞台芸術としてのバレエ
なのか、
自分の身体とのバレエ
なのか。
動きを説明するという部分において、教授法、解剖学ともにその基準があります。
そしてその基準により、言語化出来ます。
ただし、ここで考えなくてはいけないのは、
解剖学的なアプローチでの言語化です。
解剖学的なアプローチは生徒一人ひとりに対して違ったアプローチを行うことになります。
ですので、生徒と教師の情報の共有が複雑になります。
バレエ教授法は、教師も生徒も同じ基準の言語で情報共有しますので、
解剖学に比べたら大変シンプルです。
さて、次のようなパターンでの言語化はどうなるでしょうか。
そのパターンとは、
「自分の経験」
を基準にした場合。
自分の経験で教える教師がいたら、
私はこうだったから、こうしなさい。
という指導になります。
このタイプの教師の基準は、正確に言うと、その教師本人にしか分かりません。
共有のしようがないのです。
一人相撲です。
生徒と共有できる基準があって、はじめて指導というものが成り立ちます。
共有できる基準は、必ず言語化出来るものです。
経験を基準にすると、この言語化が難しくなります。
「こんな感じで!」
その感じは通常、言語化されません。
その本人にしか分からない感覚なのです。
共有できる基準で情報を共有する。
これがバレエ上達には欠かせない要素です。
バレエ教授法は、言語化された基準
と言い換えることが出来ます。
そしてその基準は芸術としてのバレエの基準です。
この基準がバレエ界の常識になる日が早く来るよう願って止みません。
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