
日本人がヨーロッパを舞台にした古典バレエ作品を踊る時、何を思って踊れば良いのでしょうか?
ダンサーのアイデンティティが作品にどのように影響するのか考えてみます。
まずは、引用から。
私がとても尊敬する平林正司先生の書籍から。
バレエ・ロマンティックにおいて、現実の舞台として描かれるのは、パリから見た地方や異国であり、『ラ・シルフィード』はスコットランド、『跛の悪魔』(三十六年)はスペイン、『ダニューブ河の娘』(三十六年)はドイツ、『ジゼル』はドイツ、『ラ・ペリ』(四十三年)は東洋、『妖精たちの代子』(四十九年)はプロヴァンス地方、『エルフたち』はハンガリー・・・・・・という具合である。『ラ・シルフィード』の第1幕には、エコセーヌとアングレーズが挿入され、音楽的にも異国情緒を強めているが、こうした民族舞踊、民族舞曲の醸し出す濃厚で多彩な地方色も、バレエ・ロマンティックの特質の一つである。異国趣味はもちろん、すでに宮廷バレエの時代からみられたし、オペラ・バレエは殊に、異国的な主題と豪華な舞台装置を特徴としていた。異国趣味は言わばバレエの属性の一つであるとも考えられるが、バレエ・ロマンティックにあって、地方色はより真正な実質を与えられ、それは、舞踊は舞曲だけでなく、舞台装置にも反映している。(『十九世紀 フランス・バレエの台本』平林正司著 16~17pより)
ロマンティック・バレエ時代の異国というのは、「パリから見た異国」。
これはとても大事な部分ですね。
クラシック・バレエに移行したあとも、この「○○からみた異国」という概念は存在しています。
作家(台本)の目から見た異国を、ダンサーが役として演じる…。
歴史的な背景を考えたときに、
「ダンサーの役割」とはなんぞや?
という命題に直面します。
古典作品を踊る時のダンサーは役を踊らなければなりません。
その役は「台本に描かれた役」のことです。
その役は、
民族、階級、性別、性格などを舞台上でリアルに表現するものでなくてはなりません。
役を演じるダンサー本人の民族、階級、性格を表に出してはなりません。
表現すべきは、台本に描かれた役のみです。
では、ダンサーのアイデンティティは、「役」を演じるときにどう扱えば良いのでしょうか?
私個人の意見ではありますが、アイデンティティを持ち出しては「負け」だと思います。
作者が台本の中に描いた時代の「役」をしっかり演じてこそ、立派な演者と言えます。
演ずるときに、自分のアイデンティティを持ち出しては、古典作品の意味がなくなります。
そもそもバレエの歴史、演技法、これらを学べば、アイデンティティを持ち出すことがいかに愚行かということが理解できます。
まずは時代背景、作者の意図(台本の意図)を理解し、役を演じきる。
台本に描かれた役が「なんじゃこれは?」でも、です。
そのおかしさ(違和感)は、それも含めて演じ切ることで観客に伝わります。
もしその手前でアイデンティティが邪魔をするのなら、クラシック・バレエを踊らなければいいのです。
コンテンポラリーダンスのカンパニーは世界中に多くあります。
そのカンパニーで踊る、もしくは自分でカンパニーを作れば良いのです。
クラシック・バレエの台本を読まないダンサーが多くいます。
当然、歴史や時代背景への理解が不十分なまま作品を解釈するので、アイデンティティがどうのと、自分本位の考えが表に出てくるのだと思います。
マリウス・プティパに対して、「私はこの役は踊れない、私のアイデンティティが許さない」と、
言うのでしょうか?
今、マリウス・プティパはこの世に存在しません。
だから、アイデンティティを持ち出してもいいのでしょうか?
なんと失礼な!
と、思うのは私だけでしょうか???
ここを民主化してはいけません。
台本を知らないダンサーは、まず勉強しましょう。
バレエ学校でバレエ史や台本を学んだダンサーなら、アイデンティティを持ち出すことはないはずです。
学びもしないで、アイデンティティを持ち出すのはやたほうがいい。
自分が無学だと露呈しているようなものです。
考えてみてください。
『ジゼル』を舞台で踊る時、
私はドイツ人じゃないから、ジゼルの代わりに「花子」にするわ。
とか(笑)。
ここは日本なんだから、『花子』でいいじゃん!
って、それでは作品が台無しです。
アイデンティティを持ち出すということはこういうことです。
まるでお笑いですね。
ダンサーがアイデンティティを持ち出すのはやめたほうがいいですね。
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